冥加屋文庫

手持ちの本と自分のための備忘録。趣味と実益。

口上

かような辺鄙な処へと、ようこそのお運びで。いらっさいまし。

このblogはノンビリとblog主が、手持ちの和本(主に仏書と道中案内記)をダラダラと紹介する処でございます。

 

文庫なんぞと大層な事を申しておりますが、そんなに沢山の本はございませんw

なお、名前は実家の屋号が茗荷屋でございますので、それに因んでこっぱずかしくも付けております。

 

さて、主は国文学出身ではございませんので、翻刻の作法がなってないですが、まあ読めればいいかなとか、ぬるい考えで添付しております。ごめんなさい。

 

基本的に影印(写真)も翻刻も自由にご覧ください。ただし写真の著作権(本の所有権もあります)は放棄していませんので、そこら辺はよろしくお願いいたします。

 

 

 

吐針石地蔵尊縁起

書誌:吐針石地蔵尊縁起 檀家長尾林右衛門蘇生物語
丁数:8丁(表紙含む)
法量:縦24.3㎝×横16.6㎝
版元:京都書林方 叶屋喜太郎
開板:文化6年(1809)開板、文化13年(1816)再板。
こより綴じ。一部ヤケ。

写真と翻刻(PDF) https://1drv.ms/f/s!AqerhqeG8xB7m1VcngyH9GAtKHLL

 

江戸時代にはたくさんの神仏が信仰されていたようです。これらの神仏には様々な霊験があり、多くの略縁起が刷られたようですな。

今回は、三河国播豆郡西城吉良庄(現在の愛知県西尾市)にある亀休山養壽寺にある石地蔵尊の霊験を記したものをご紹介。

しかしこの本、よく読むと地蔵尊の霊験縁起よりも、このお寺の檀家であった長尾林右衛門なる人物の蘇生譚がほとんどを占めていて、そっちの方が重要というかなんというか…エフンエフン。

まずはメインの石地蔵尊の縁起を簡単に記すと、ある母親が縫物をしている傍らで幼い子供が遊んでいると、子供がうっかり針を飲んでしまった。母親はびっくりして、神仏にすがるしかないと、養壽寺の石地蔵を一心に拝んだ。すると石地蔵の口から針が吐き出され、子供はすっかり良くなった、というお話。

案外、石地蔵についてはあっさりした書き方ですが、これに続く長尾林右衛門蘇生物語はほとんどのページを割いて書かれています。

ちなみに江戸時代にはこうした蘇生譚が数多くあり、大概が非常に信仰心がある者→霊夢もしくは一度死ぬ→地獄極楽を垣間見る(地蔵に引導されることが多い)→蘇生→予告往生する、というパターンが多いですな。いずれUPしたい『孝子善之丞感得伝』や『安西法師往生記』も同じように地獄極楽巡りが描かれます。

さて、この長尾林右衛門の蘇生譚も、林右衛門が一度死に、常日頃信仰している養壽寺の石地蔵に引導されて地獄極楽を垣間見、蘇生ののちに予告往生するというものです。

江戸時代の蘇生譚や霊験譚で面白いなぁと思うのは、何年の何月に起こったことだと具体的に書いている点ですね。この長尾林右衛門も文化5年(1808)の12月27日に病気にかかり、翌年正月8日にいったん息絶えるのですが、同日の八つ時には蘇生して、6日間存命して、13日の夜四つ時に命終したとしています。

 

この吐針石地蔵尊があるという養壽寺ですが、愛知県西尾市にある浄土宗の寺院で、「矢田のおかげん」といわれる涅槃会が有名なようですね。西尾市岩瀬文庫もあるし、いつか訪れてみたいもんです。

南都三十三所観音霊場順礼記

書誌:改正南都三十三所観音霊場順礼記
丁数:18丁(表紙含む)
法量:縦11.8㎝×横16.7㎝
版元:奈良・大仏前 井筒屋庄八
開板:安永5年(1776)
こより綴じ。
写真と翻刻(PDF)
https://1drv.ms/f/s!AqerhqeG8xB7my9iU_hNCGvDm8tZ



日本の古本屋サイトで買った本。何年も前かと思っていましたが2年ほど前に買っていました…忘れてるし。

江戸時代には多くの地方霊場が創られて信仰を集めたようですが、一方で巡る人も無くなり、忘れられていくものも。
この奈良の観音霊場は、現在は失われてしまった霊場です。残念ながらググっても順番は出ません。

全国の観音三十三所地方霊場を網羅した北川宗忠『全国ふるさと三十三所巡礼辞典』に、村井古道『奈良坊目拙解』に記載ありとあったので、探してみましたが、霊場寺院の順番、ご詠歌の記載はありませんでした。
で、今回紹介する本に、この失われた霊場ご詠歌が載っています。
本が発行された当時、すでに廃寺や廃堂になっていた札所もあるので、今では分からないのも仕方ないかもしれませんな。

以下が南都観音霊場の札所とご詠歌になります。(漢字に直しているので文意が違うかもしれません)

一番 興福寺・南圓堂
 春の日の南にまろく かげたちて 幾夜久しき きしの藤なみ
二番 興福寺・西金堂
 西にある黄金の堂へ一筋に みな人ことに まいりこそすれ
三番 興福寺・食堂
 諸人の飢えを助けし食堂は 今にたえせぬ誓いなりけり
四番 興福寺菩提谷・大御堂
 ありがたや菩提の縁に大御堂 ねぶりを覚ます暁の鐘
五番 隔夜堂(東丹坂町)
 夜をへだて歩みを運ぶ人をこそ 助けたまうと聞くぞ嬉しき
六番 不空院(高井町)
 心ある人やはまいる不空院 これぞ悟りの寺の名なれば
七番 梵福寺(鹿野苑村)
 大和にも鹿の薗生をうつしおき 松吹く風を御法とぞ聞く
八番 正覚寺(紀寺町)
 いざまいれここぞ正道正覚寺 なおのちの世は疑いぞなき
九番 璉城寺(紀寺町)
 ゆきめぐりここに紀寺の璉城寺 心の望み今ぞかなえる
十番 長福寺(中辻町)
 参るより寿命も長き福寺の 心の教えあるにまかせて
十一番 興善寺(十輪院町
 観音の誓いは深き奥の寺 心のうちも潔きかな
十二番 極楽院(中院町)
 立ち寄れば玉の台の心地する これや極楽中院なるらん
十三番 元興寺(芝の新屋町)
 古は名高く聞きし元興寺 ふりぬる跡もなお殊勝なる
十四番 悲田院(南城戸町)
 観音の大慈悲田の深ければ 恵みに誰か漏れぬものかは
十五番 来迎寺(西口柳町)
 観音の来迎寺をも頼むかな 紫雲たなびく西口の空
十六番 観音堂(大安寺村)
 荒れ果てて名のみばかりの大安寺 大悲の誓い朽ちせざりけり
十七番 法華寺法華寺村)
 法の花開きそめしは久方の ことにたえなる御寺なりけり
十八番 海龍王寺(法華寺村)
 観音の弘誓の船に竿さして 海の龍王今や渡らん
十九番 不退寺(不退寺村)
 観音をただ一筋に頼みつつ 不退の池に急ぎまいらん
二十番 称名寺(菖蒲池村)
 称名の声専法と思えただ これ観音の浄土なりけり
二十一番 慈眼寺(北小路町)
 観音のあまねく衆生を助けんと 慈眼に浮かぶ涙なりけり
二十二番 愛照寺(東新在家町)
 ただ頼め大慈大悲に愛照寺 のちの世かけて頼む観音
二十三番 円満寺(法蓮村)
 曇りなき真如の月の円満寺 法の蓮の光輝く
二十四番 眉間寺(佐保山)
 山高みさしそう月の影見れば これや仏の眉間白毫
二十五番 浄国院(東笹鉾町)
 君たみの道こそ広き今小路 浄国に住む身もや嬉しき
二十六番 善鐘寺(今在家町)
 十王の御庁につかん心地して 善鐘寺にも急ぎ参らん
二十七番 浄福寺(幸善院町)
 新しく磨きたてける浄福寺 さかゆる末や久しかるらん
二十八番 般若寺(般若寺町)
 上り経て般若寺坂にきてみれば 四方の霞の晴るる山々
二十九番 東大寺戒壇
 観音を信ずる人はそのままに 戒壇院を保ちこそすれ
三十番 観音寺(野田)
 光さき三笠の影にほの見えて 利生新たの野田の観音
三十一番 東大寺・念仏堂
 よもすがら念仏堂に籠る人 迷いつきにし暁の鐘
三十二番 東大寺・法華堂
 法華堂心静かに拝まんと 寺の名かけて読む普門品
三十三番 東大寺・羂索院
 如月の堂におさむる巡礼歌 繰り返し読む滝の白糸

さて、この南都三十三所観音霊場は由来書を読む限り、寛文年間(1661~1672)頃に成立したようですね。
かいつまんで紹介すると、寛文年間の頃、観音を信仰していた休安という人が、ある時、二月堂に十七日参篭していると霊夢を見て、西国霊場になぞらえて、奈良の三十三所を尋ねて自ら巡拝し、いろいろな人に勧めた。それから奈良の人々は信心を起こして巡礼し、御詠歌も作られた。しかし時が経ち、なくなる寺、住僧や堂守がいない堂宇も増え、巡礼する人が迷うことになった。そこで井筒屋何某がこれを嘆いて、奈良巡礼のために御詠歌と順番の道順、略縁起を付けたものをまとめた、ということのようです。

この本の版元、井筒屋庄八(絵図屋庄八)は道中記や奈良名所絵図が好きな方なら超メジャーな版元ですね~。
『筒井家史料目録』とかあるようですが、時間がなくて調べきれませんですた。残念。
あと札所寺院の場所も土地勘ないし、よう分かりませんでした…廃寺結構あるんだなぁ。

まあこんな感じで、手持ちの本をゆるーく紹介していきますよ…。(´・ω・`)


参考文献
北川宗忠『全国ふるさと三十三所巡礼辞典』サンライズ出版株式会社 2009
村井古道『奈良坊目拙解』※奈良県図書館HP にデジタルアーカイブ有。

絵図屋庄八(井筒屋庄八)に関してはいくつか論文があるのでciniiやら図書館でドゾー。